津田沼、鷺沼温泉、界隈の近代建築、アノニマス建築
津田沼駅界隈は戦前から軍都として栄え、様々な軍事施設跡が残っている。旧鉄道第二連隊の正門は千葉工大の門として、現存する上官の宿舎数件はは住宅として使われている。当時の軍事施設の区画は今でも残り、2項道路が張り巡らされている。
千葉工大北門を東に進むと鉄道連隊の頃橋脚に使われていた新京成線の高架橋に出会う
京成津田沼駅前には文化住宅の洋館と寄棟屋根茅葺トタン張りの商家や納屋、蔵などが現存している。文化住宅の洋館は戦後すぐの航空写真では工場の中に建っている。向かいの植草米店さんはこの頃は茅葺だったようだ。奥様から丁度150年を迎えたと伺った。かやの吹き替えは困難になったため板金加工会社に頼んで葺き替えたという。祭りの時は畳を敷いて若い男たちが集まり酒を飲み交わすようだ。
植草米店 明治元年1868頃
向かいの文化住宅洋館は向かいの米店の倉庫の応接間兼音楽室だったそうだ。左側はのちに増築。
京成津田沼駅前に「御大典御成道」と言う石碑がある。これは京成線に沿って谷津方面に1929(昭和4)年に昭和天皇即位を記念して整備された道である。軍施設の関係を残すものである。
御大典御成道記念碑 昭和4(1929)年
京成津田沼駅前にの商店街の道を歩くと左手に数年前までお茶と海苔を売る店だったミチヤさんがある。ここは創業明治4年で、母屋の建築も同じ時期に作られており米と薪などの商家だったと伺った。改修リノベーションされ、雑貨店、煙草屋、飲食店などに使われている。
ミチヤ 明治4(1871)年
店舗名看板は戦前風の看板建築
京成習志野駅前には船橋駅界隈にもある防火建築帯が建っておりそのアーケードの下は閉店した店が多く栄枯盛衰を物語っているがおしゃれなバーとかもあったりして面白い。
清光薬品工業 戦前
ノコギリ屋根の大規模な工場もかつての久々田村集落のメインストリートだった裏道に建っている。現在住宅地の場所にノコギリ屋根の工場があるのも珍しい。国土地理院の終戦直後の航空写真にはしっかり写っており、戦後数回改築を行ってきたようである遠くからもノコギリ屋根がよく見える。この周辺には戦前軍用の工場が数件建っていたそうで、不思議な形をした公園などもある。
S邸 昭和初期以前
津田沼の名の一つ久々田集落の中心部にはかつての漁村、農家、商家の住宅が共存するがその中にも美しい赤い屋根の洋館建築が建つ。
旧千葉街道沿いにはもともと茅葺の寄棟屋根の商家や農家が二階を増築したり、屋根の葺き替え、改築などをして姿を変えながら多く現存している。
かつては千葉街道沿いの菊田川河口と海岸線に位置していた鷺沼温泉
千葉街道はもともと海岸線沿いの街道で木場や商家、漁師の家が軒を連ねていた。その中に鷺沼温泉がある。そこは創業昭和8(1933)年。路地裏で増改築が重ねられており、材から戦前戦後を判別するのは難しいが1961年の航空写真には現在と同じ形で写っている。改築を加えながらも所々に戦前の建築らしい意匠も残っている。
以下カメラ撮影HP掲載許可済
1970年代まで鷺沼温泉は海岸に近いところにあったが、現在は海岸線から4キロ離れたところとなった。
津田沼の「田」名の由来の一つ久々田村界隈には明治期の農家の母屋、蔵、納屋や昭和初期の洋館なども残っている。歩くとわかるが古くの集落らしい景観も残っている。
旧習志野市役所庁舎
集落の街道への道、右は市の文化財の母屋と納屋
菊田川暗渠
菊田川暗渠
菊田川暗渠
習志野市役所近く、菊田川暗渠
見えない場所、忘れた場所にかつての景観が残っているまちであった。
他にも見所は多々あるがまたの機会に
根岸、鶯谷、東日暮里界隈の近代復興建築①
根岸、東日暮里、鶯谷界隈の終戦直後の航空写真をみると、周りより黒くなったエリアがある。戦火で焼け野原とならず、建物の残ったエリアの残影だ。
キノネアトリエ 旧武蔵屋酒店 昭和3(1928)年
築の酒屋さんは2018年3月に閉店。その2軒長屋を活用しオフィスとして再出発した場所。
鶯谷アパート 昭和7(1932)年
マンサード屋根の木造三階建アパート
手児奈せんべい 昭和初期
根岸のせんべいの名店で、少し値はしますが、綺麗な包装と美味に出会える煎餅屋。角地の二軒長屋で片方はベランダを内包するファサードが取り付けられている。長屋の話を色々伺った。
近所の方から教えて頂いた近辺で一番立派な商店建築。造りが美しい。
泰寿院
八王子の近代建築群 戦後建築の逸話
商店建築はやはり自分が生まれ育ち、または嫁ぎ先で商いを重ねてきた家で、たとえ流行が時代を一世風靡しても必死にそれにしがみつき、幾度となく化粧直しをしてきた。
八王子は多摩地区の人口57万人の都市で甲州街道の要所であった。しかし、戦火で蔵、蔵造りの商家を残して街の大半が全焼。戦後復興期にモルタル外壁の木造建築が軒を連ねた。
1950年代の戦前の様式に近い装飾を削ぎ落とした看板建築の間の路地のような場所を入っていくと戦前の蔵がのこっている。
◼️八王子市横山町
●小谷野紙店 八王子市横山町
この建築の二階壁には和洋紙、襖紙、壁紙とある。
こちらは戦後復興期にあたる昭和25(1950)年に竣工した木造建築である。
横山町は戦火で蔵以外のほとんどの建物を焼失し、看板建築と呼ばれるファサードの壁が屋根を隠す形状は戦後の復興期の建物にも用いられたが、1950年頃のこの時期から建築基準法の改正により、外装材に防火材として用いられたタイルや銅板などが使われなくなり、装飾の少ない、モルタルに配色をした建築が増えてきた。
天井の高い店内、看板から伝わってくる格式と、商品を記した広告が店を飾っている。建築の魅力もいろいろ教えていただいた。
建物の設計は町の大工。戦後、ある日に店の前を通りがかった大工が「ここを俺につくらせてくれ」と一言頼んできたという。その一言で店主がOKを出したという事を笑いながら教えてくださった。
●荒物金物雑貨の大島屋の看板は戦前の右読みであり、街道沿いの広い間口の商家である。
ここは歩いている時一眼に止まった。
「信用を売る店」という看板には信頼を大切にする商人らしさを感じる。
店主さんに伺いましたが、竣工時期は戦前戦後は不明とのことですが、店主さんが嫁いだ店の祖父母の方が2人で建て、切り盛りしてきたそうで、立派なファサード、広々として、天井の高い店内、良き材が使われています。伝統を感じる、右読みの看板は昭和初期から戦時中にかけて用いられた書き方です。ただ、これがあると言って戦前の建築とは言い難い。
国土地理院の1945年頃の航空写真を確認すると片流れ屋根の屋根形状は異なる。
また周辺の戦後の建築のように装飾は少なく、モルタルの外装材でもある。
良き工芸品々も並んでいる。
同じ敷地の隣の家は改装されている。
街を西に歩くと戦後の建築に出会う。
アーケードの下をくぐると、横山町の一つ代表的な戦後の建築に出会う。
駅へ続く斜路は戦後の区画整理によって整備され、道沿いには戦後復興期の建築も何件かある。
甲州街道沿いにあった商家も何件かはマンションや再開発、リノベがなされて更新がされている。最近流行りの白い建築となって面影は無くなったが。
花街は黒塀の景観をつくりだす努力をしている。ここはよく見るとシンプルでなかなか面白いが、遠目に見ると良い雰囲気で面白い。
湯島界隈の近代建築群 その1
長屋群
高大合格祈願に際によく来た湯島天満宮へは最寄りの湯島駅。坂を登ると戦前の建築、文化の繁栄を感じる場だ。
そして、もう一つ数年前まで味のある良き建物があった。この写真の中だが、いまは他の建築と馴染んだ。
旧一色屋菓子店
こちらは、戦後は黒に近い色?だったと伺った。数年前までは赤茶色だった。外装はかわっても窓と全体から元の姿が伺える。
魚て津、相澤牛乳店、池田紙店
湯島大衆バル 鶏ットリア
黒門小学校
竣工:昭和5(1930)年7月19日
設計:東京市
施工:日本土木建築株式会社
黒沢ビル(旧小川眼科ビル)
昭和5(1930)年
設計: 石原暉一
堺屋(旧中村商店)
大正末期〜昭和4(1929)年
設計施工:荒井組
つい最近まで全面にスクラッチタイルが貼られ、タイルの滑落防止のためネットが貼られていた。
両山堂印刷所 昭和29(1954)年
数年前まで大谷石でできた三棟の倉庫、事務所、住宅で構成されていたが一棟を残して解体された。ただ戦後7年後の建築でありながら戦前の建築を彷彿とさせる建築の装飾は、芸術作品だった。
谷中界隈のアノニマス近代建築 隠れた建築をさがして
谷中銀座は大正期から昭和に至る間に暗渠化された藍染川(谷田川)の上に形成された商店街である。表通りには増築改装を繰り返したファサードが、側面には昭和初期の出桁長屋が隠れている。
鮮魚山長など 大正5,6(1915)年頃築
※拝聴
壁の塗り替えや看板で分かりにくいが東洋風の装飾が所々に見える建築。店主に伺ったところ7件連続する長屋で、建て替えられた南の二軒は一階を駐車場に使った倉庫と住宅だったそうだ。川の暗渠化された時期は大正末期のためそのころからこの形状だったかは謎であるが谷中の初期からの建築であることは間違いない。
看板建築は関東大震災の今和次郎率いるバラック建築社によってつくられた復興建築ものだと記されている書籍は多いが、これは看板建築という観点として。長屋としての共通意匠のこの形式は震災前に遡る。
吉川錻力店 大正14(1924)年頃
ブリキ店なのでトタン屋根や雨樋などこの建築を象徴するような建材を扱っているお店のようだ。震災以降の建築。もともとは赤かったはずだ
大沢銅壺店
裏路地
増築を重ねた中華料理店
赤煉瓦の壁