南高円寺の近代建築
カフェギャラリーこころみ 昭和9(1934)年
フヂヤ薬局 店舗昭和8(1933)年 蔵などは大正期
昼夜の花園神社酉の市 新宿アノニマス
11/7水曜日夜と12の昼に撮影した新宿、花園神社の酉の市。神社門前の屋台街。神社内の熊手屋台が複雑に入り組み不思議な空間を作り出している。
大宮のアノニマス建築-1
↑2019
↑2013/9/17
大宮聖愛教会礼拝堂
竣工:昭和9(1934)年10月19日
設計:上林敬吉
施工:清水組か?
構造:鉄筋コンクリート
屋根銅板葺き
階数:一階
用途:宗教施設
大宮最古のコンクリート建築である。東口と違って再開発がされた西口に唯一残るレトロな建築と言っても良い。
設計の上林敬吉は栃木県初のコンクリート建築の宇都宮聖公教会を設計した建築家である。京都聖ヨハネ教会などを手掛けたジェームズ・マクドナルド・ガーディナーの弟子でガーディナー建築事務所のスタッフだった。上林敬吉は牧師会館とこの礼拝堂を手掛けた。総工費20900円。
竣工当時は川越電気鉄道(西武大宮線)が建物の目の前を走っていました。このことは竣工当時の記念写真に写っている。(埼玉県関連書籍より)
大宮製油 大正末〜昭和初期
明治39年創業の油屋さん。片流れの屋根ですが看板建築とは違い、色違いのスクラッチタイルを全面に貼った立派な建物。中にはレトロなガラスを使った間仕切りやレトロな作業台があります。
西原小児科医院 大正13(1922)年
大宮総合車輌センター赤レンガ倉庫(燃料倉庫) 明治30(1897)年
アイメガネ大宮東口駅前店(旧中地ミシンのデパート)
昭和9(1934)年以前
つい最近まで西面にはアール・デコスタイルの窓があった。このビルは3,4件の昭和初期の建物の集合体で南面東端の看板に透けてマンサード屋根が見える。
半世紀まえまでソニックシティビルの付近には平屋建ての国鉄宿舎群がありました。ここもそのころからある戦前の住宅街でしょう。数年前に1件が解体されました。
大宮駅前新共栄ビル 昭和37(1962)年
設計:日本不燃建築研究会/今泉善一
今泉善一といえば戦後の防火建築帯をつくりだした建築家である。大一ビルを含む3棟のビルで形成され、1960年代は共同デパートだった。このビルには地下街があり、駅の東西連絡通路と繋がっていたと言われている。80年代から2010年代まで駅前一帯の再開発で消滅の危機があったが、計画は頓挫し、中央デパートのある隣の区画の再開発が始まった。
◼️その他の建物
大宮駅東口
大宮駅東口は特に戦前の建築群が多い。東口のすずらん通り周辺は看板で隠されていて分かりにくいがよく見ると、出桁や銅板、大谷石が見えたりする。
すずらん通りのある区画は小規模な店舗が多いが、周辺には街道沿いの商家の流れを汲んだ、細長いビルが多い。旧大宮ロフトのあった大宮RAKUUNは一番街商店街と並行して駅前の道と旧中山道をつないでいる。この建物は氷川神社参道への道の役割も持っており旧ロフト時代は駅から歩いて参拝に行く人の抜け道でもあった。また一番街商店街とも繋がっており、表は片面だった街道時代から鉄道が開通し表が多面になったことを表している。
城下町ではない大宮、浦和、所沢などでは流通伝達の街道と、鉄道への機能の変遷によって街道沿いの建築が他の地方の都市にはない形状の建築をつくりだしている。
◼️氷川神社参道
浅間町ハウス 平成21(2009)年 大江弘之建築設計事務所
氷川神社参道脇の熊谷珈琲さんのあるビル。参道から一歩入る空間とバルコニーの雰囲気が良い。
旧大宮市民会館 昭和44(1969)年 加藤渉
大宮消防署氷川参道出張所 平成22(2010)年
永峰綜合計画事務所 (永峰富一)
アクロスビル 平成5(1993)年 設計:永峰綜合計画事務所 (永峰富一)
ゼフィール 平成3(1991)年永峰綜合計画事務所 (永峰富一)
解体前の八百屋とギャラリーの頃の写真があったら変えておきます。良い空間でした。
◼️宮町
大正末期の建物だそうです。
◼️大宮駅西口
西口は東口と異なり、80年代に新幹線開通に合わせ駅前が大幅に再開発された。ウエンディズとソフマップの間からソニックシティが見えるが、その通りが元の駅前通りだ。マルイ、駅前ロータリー、そごう、アルシェの順にどんどん再開発が行われペデストリアンデッキが結ばれた。2010年まで駅前にはバラックのようなものがあった。開発が進んだのは表だけで、そごうの裏や駅から数百メートル離れると戦前の建築が残っていたりする。
浦和から大宮まで街道沿いに細長い家々が並ぶ東側と駅周辺にだけ高層ビルの密集する西側の開発スピードは大きく異なる。
ここら辺も区画整理が挙がっており近いうちに姿を変えてしまうのでしょう。
式年遷住居=数十年ごとに建て替える農家の母屋
私が勝手に式年遷住と名付けたのは東京周辺の住居に多くある、農家や商家の建て替え形式である。
これは私の祖父の育った福島のとある集落の建築群のスケッチ。大半が100年以上まえの建築だが、その半分近くが左右非対称の2つの建物が連結した形式である。
例えば上のスケッチ上から3段目の右の住宅は実際見ても、外装から3,40年前に建てられた建築に見える。しかし中に入るとそこには20畳以上の大広間と太い柱のある、築100年を超える住宅だった。これは私の先祖が建てたものだが、二階建ての左半分はもともと、水回りと蚕を育てた土間だったが半分解体してキッチンや風呂を作り二階建てとした。
↑集落の式年遷住建築群
↑20畳の大広間スケッチ
二階建ての利点は家族構成の変化に対応する容量を増やすだけではなく、古くからある母屋の荷重に耐えられるように支える、バットレスのような役割ももっている。荷重を減らすため茅葺をやめ華やかな赤いトタンの家が集落で流行したそうである。
近年、古くからの母屋は東日本大震災の影響で傾いてきているが1寸ほど離れて建てられた二階建ての建物がこれを支えている。
時期によって様々な形状の更新がされている。雪国らしいマンサードの屋根勾配を持った二階建、素の形状にあわせたもの、まるごと一軒建て替えたように見えるものなど。
↑元々寄棟の一階建ての母屋だった右側は二階建てに更新されてはじめている。このように3,40年前と現代の建物が共存する家々が増えている。
これらの式年遷住は集落内で大工などの様々な職人が連携して回すことができていた。